戊辰戦争(会津戦争)で敗戦し、鶴ヶ城は荒城となり、会津藩の多くの武家は斗南藩(となみはん)として、現在の青森県むつ市へと移住させられました。この辺りまでは、戊辰戦争を調べればよく知られた話です。
しかし、その後、戊辰戦争とは直接関係のないはずの会津の多くの農民が強制労働させられたという「福島事件」をご存知の方は、どれくらいいるのでしょうか?
Wikipediaなどにも記載がありますので、ぜひ読んでみていただきたいのですが、この出来事がまるで「無かったこと」にされているように感じるほど、地元でもほとんど語られることがありません。
簡単に説明すると、現在の会津若松市にある「大町四つ角」(国道118・121号の神明通り北交差点から西に向かい、大町通りとのカギ型の交差点)を起点として、南北に延びる国道121号線(会津西街道・大峠道路)と、西に延びる国道252号線(※当時とほぼ同じルート)を整備するために、多くの会津の人々が強制的に労働させられました。働けない人々には、一定の金額を納めることが義務付けられていたといいます。
まるで「会津は賊軍だったから何をしても構わない」と言わんばかりの扱いです。詳細はWikipediaなどをご参照ください。
会津若松市には鶴ヶ城があり、すぐ近くには福島県立博物館もあります。ここでは、会津藩の成り立ちから縄文時代、戊辰戦争、さらには東日本大震災に至るまで、広範な常設展示が行われています。しかし、この「福島事件」については、展示どころか名前すら見当たりません。
また、市内を巡る観光客向けの循環バスの車内放送では(うろ覚えですが)、「この先、大町四つ角には城下町特有のカギ型の道路があり、敵の侵入を防ぐために作られたとされています」と紹介されていたと記憶しています。けれども、その場所でかつて何があったのかについては、一切触れられていません。
私はもともと横浜で生まれ、中学生の頃に会津に引っ越してきました。当時の歴史の教科書には「福島事件」についても記載されていたと記憶しています。にもかかわらず、会津の農民たちが「賊軍」の汚名のもとに受けた過酷な扱いが、なぜこれほどまでに語られず、記録も残されないのか――本当に不思議でなりません。
そもそも、戊辰戦争での敗北を「美談」として語る風潮にも疑問を感じます。
たとえば、白虎隊士中二番隊が戸ノ口原の戦いから逃れ、飯盛山にたどり着いた際、周囲の民家が火事になっているのを見て「城が燃えている」と誤認し、確認もせずに自決してしまったという話があります。ひとり、飯沼貞吉だけが地元住民に助けられて生き残りました。この出来事は今も「美談」として語られていますが、本当にそうでしょうか?
正直なところ、「若くして命を散らすこと」のどこが美しいのか、私にはまったく理解できません。
異論や反論があることは承知しています。しかし、そのうえであえて、問題提起としてこのことを伝えたいと思っています。
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